小沢裁判について
皆さん(国民)は、小沢一郎が好きか嫌いかで判断する場合が多い。そして嫌いな政治家として象徴されている。長年、マスコミの報道は、被告人として彼を報道し自ずと悪者扱いされてきた客観的事実がある。
今回の判決は、小沢一郎の試金石であり、政局は一転するに違いない。有罪無罪の判決は要旨からどちらにでもできる事実認定であり、極めてグレーであるものの、司法判断は極めて重いと言わざるを得ない。
与党野党の政治家が、今後小沢一郎のことを国会で喚問しろとか、好きなことを吠えるに違いないが、吠える政治家こそ同じムジナでもある。日本の国会議員は、政局で行動する輩だらけで、真の国家ビジョンやアイディンティーすら没却されているようだ。永田町や赤坂の料亭で根回しを謀る政治活動が容認され、日本の議会制民主主義が確立している清濁を合わせ飲み込む国会議事堂は、出るクギの象徴、小沢一郎の批判へと大同団結された感が否めない。濁だらけの国会議事堂(国会議員)であれば、いっそのこと小沢一郎を日本のトップにしてもいいのではないだろうか。いや僕は大いに期待している。
『清水、魚棲まず』とは全くそのとおりである。唯一の立法機関である国会で暴力団規制法と同様の国会議員にも使用者責任を課せばいいものを、議論さえしない国会議員と、その問題を大きく報道しないマスコミの使命感の欠如といい加減さが透けて笑える。
本日の小沢裁判から考えてみた。(敬称略)
醜態を垣間見る。
人は、日常生活のうえでかかわりをもつ事物や他人に対して、多少とも好き・嫌いの感情を抱き、とくにそれが強い形でもたれる場合には、それらの対象や相手への態度、行動が、それによって大きく影響される。好きな事物や相手に対しては、それに接近したり、いつもいっしょにいようとしたり、たいせつにして自分のものにしようとしたりする。反対に嫌いなものに対しては、これを避けたり、無視したり、場合によっては破壊してしまおうとしたりさえする。
子供では、このような好き・嫌いに基づく行動が端的に示されるが、大人になると、社会的な規制や利害関係による制約が絡み、好き・嫌いが単純明快には表明されない。
特定の人間が好きになる要因として、(1)空間的接近、いつも身近にいる。同級生や仕事でのつながり。(2)熟知性、頻繁に接触する機会があること。繰り返し、レクチャーをうけることによって諭される。同一の団体にいる。(3)類似性、なにかの点で自分と類似していること。同一趣味。(4)相補性、要求に関して対照的または相互補足的な関係にあること。
しかし、どの要因にしても適正な水準があり、度を超えると逆効果をもたらし、互いに反発しあう場合も生じる。なるほど大人の本質を垣間みた。
罪を憎んで人を憎まず!
刑事事件の被害者親族は加害者を許せるはずがないのは当然である。しかし、いくら極刑を科したとしても心は晴れるはずもない現実がある。一方、司法制度改革のベクトルは、死刑を容認する方向へと動く事実ともなる。その昔ハムラビ法典でいえば、目には目を!歯には歯を!の惨い処刑が行われた歴史がある。日本でも数百年前までは敵討ちがまかり通っていたのである。日本は知らずとしれた法治国家である。死刑の是非の議論は紆余曲折して時代背景とともに今後移り変わっていくだろう。私の身内に被害者が出た場合には当事者としてどうなのかと自問自答するとき、加害者の事例事案によっては許せるような気もするのである。
病んだ社会が生んだ悲劇顕在が具象化したと考えるとき、社会がセフティーネットを構築していない憲法の瑕疵と考えれば、罪を憎んで人を憎まず!との考えも出来るのである。
理不尽な畜生野郎は法の裁きがあって当然である。しかし裁きは神がするものであって、人間がすべきものでもない。しかし神は現実いないのであり、裁判でもって加害者の人格形成の全てを知り得たとしてもなお知ることはできないと考えるのである。
目には目を!の考えか?罪を憎んで人を憎まずか?この先、法曹界で議論が途絶えることはないだろうが、抑止力の容認と条理の真理を天秤にかけたとき、死刑があるから犯罪を犯かさないとの抑止力は少なくとも僕には働かない。その考えから死刑は廃止すべきであり、死刑が極刑だとは思われないのである。惨い処刑は抑止力が働くから効果があるものの条理に反する。近い将来、酷い死刑執行がなされる時代となることは、歴史が証明しているように思えてならない。
山口県光市の母子殺害事件を考えてみた。
私が知る限りの弁護士は金の亡者が多い。利益対時間の効率がよい最たる職業だ。大会社と顧問契約を結び、言葉に語弊はあるものの、一般ピープルを詐欺して儲ける商売の片棒に邁進する。もっとも儲けるとは『人をして言って信じさせる者』との語源がある。その昔、お金のない冤罪者の多くは理不尽な現実を強いられる。いつの時代(世)も貧乏人は損をして、事理弁識能力のないものは馬鹿を見るのである。これが自然界における人間界の淘汰競争かと考えるとき、自身が教養を身にまとい更なる上を目指して日々向上する覚悟がなければ干されるのである。三百代言が容認される時代が、人間の本来の想像した世界であるのか。神様が容認した世界観なのか?清濁の濁をこの時代は魑魅魍魎の輩は詭弁を用いて使い分けるのは、これまた人間の醜態が顕著みえる。本年は司法試験の合格者が多く折角試験に合格しても就職できないと嘆く。確かに収入がなければ業界やその仕事に専念できないのは尤もなことである。しかしながら立派な先人の弁護士はその途の仕事を自ら選択して決して裕福とはいえない生活を自ら選択しているのである。福井弁護士会にどれだけこの想いをもった弁護士がいるか?福井女子中学生殺人冤罪事件を担当の小島先生や、もんじゅ行政訴訟主任弁護士の吉村先生らは揶揄にさらされても信念を貫く立派な御人である。しかし画一弁護士って立派ですか?と問われたとき、三百代言に酔っている代証人は言語道断、もはやバッジをはずしなさい。と心で呟く県民の声が聞こえる。
読売ジャイアンツ球団について考える。
真剣ブログに久々にペンを執った。会員や支持していただいた方々からの励ましに起因するものである。尚、過去のブログは悪戯の回答で封鎖されたが現在調査中であり、刑事告訴を含めて検討中である。
清武球団代表と渡邉恒雄との確執が顕著となったが、清武氏の主張は愚痴なのか?渡邉氏に反省を促すためなのか?球団ファンのためなのか?はっきりしないのである。
私は、企業統治(ガバナンス)が活かされていないことを憂いて反旗を掲げたと考える。この矛先をどう収めるか見ものであるが、何か雲行きが可笑しい。大人の知恵というかシャンシャンと和解されそうな気配である。
清武球団代表も渡邉恒雄氏も、所詮球団株式会社の取締役にしかすぎない。清武氏が役員としてガバナンスのため、渡邉氏を取締役会で解任するのが一般的な方法であるがその手法を採るか否かは定かではない。又、渡邉氏も清武氏を取締役会で解任すれば事足りることである。当然手続上、株主総会での報告義務は避けられない問題はあるものの、球団を越えた球界やファンのためには何が正しくて何が正しくないのか、根本的な問題を提起した以上、最終解決なくして、組織のガバナンス統治は繁栄するはずがないし野球ファンは納得しないだろう。球団を代表するジャイアンツ株式会社としてもこの際、日本の野球ファンに説明責任があることは否めないのである。
でなければ、愛想を憑かれたファンは少なからず離れていくに違いない。